東京地方裁判所 平成11年(ヨ)21179号 決定 1999年11月12日
債権者
甲野花子
右代理人弁護士
江森民夫
同
菅沼友子
債務者
西谷商事株式会社
右代表者代表取締役
西谷幸男
債務者
乙原一郎
債務者
丙山二郎
債務者
丁川三郎
右債務者ら四名代理人弁護士
八代徹也
主文
一 本件申立てをいずれも却下する。
二 申立費用は債権者の負担とする。
理由
第一申立て
一 債務者乙原一郎(以下「債務者乙原」という。)、債務者丙山二郎(以下「債務者丙山」という。)及び債務者丁川三郎(以下「債務者丁川」という。)は、債権者に対し、「てめえ」「この野郎」「気違い」「ぶっ殺すぞ」「くそばばあ」「会社に来るな」「死ね」などの暴言をあびせ罵倒したり、債権者を取り囲んで威嚇するなどして、債権者の名誉、人格を侵害してはならない。
二 債務者乙原は、債権者に対し、債権者に近接したところで机をけったりたたいたりする、傘を振り回す、身体に手をかける、顔面を近づけて大声を浴びせる、など、債権者に暴行を加えてはならない。
三 債務者西谷商事株式会社(以下「債務者会社」という。)は、債務者乙原、債務者丙山、債務者丁川その他債務者会社の社員らをして、債権者に暴言をあびせ罵倒したり債権者を取り囲んで威嚇するなどして、債権者の名誉、人格を侵害する行為をさせたり、債権者に暴行を加えたりさせてはならない。
四 債務者会社は、債務者乙原ら同社の社員その他の者をして、債権者の営業活動中に債権者を追尾するなど、その行動を監視してはならない。
第二事案の概要
一 本件は、債務者会社に雇用されている債権者が、債務者らから名誉・人格の侵害、暴行などを受けているとして、人格権又は人格権に基づく差止請求権に基づき、それらの差止めを求めた事案である。
二 前提となる事実
1 債権者は平成四年債務者会社に入社した(争いがない。)。債務者会社は機械器具などの販売、貸室・建物の賃貸、損害保険代理業務などを業とする株式会社である(<証拠略>、審尋の全趣旨)。
2 債権者は債務者に入社してから平成一〇年四月までは債務者会社の東京支社総務部に配属され、総務事務一般と損害保険(債務者会社が行っている損害保険会社の代理店業務)の仮受金、仮払金の帳簿の作成などを行っていた(争いがない。)。
3 債権者は同月中旬ころ東京支社の総務部次長であった太田進(以下「太田」という。)から東京支社営業第一部への配転の話を受け、同月二七日東京支社の総務部長である債務者丙山から東京支社営業第一部への配転の内示を受けた。債務者は(ママ)同年五月一日付けで債権者に対し東京支社営業第一部への配転を命じた(債権者が同年四月二七日に債務者丙山から配転の内示を受けたことについては<証拠略>。その余は争いがない。)。
4 債権者は同年五月一日から東京支社営業第一部において勤務を開始した。東京支社の営業第一部長である債務者丁川は債権者が営業第一部での勤務を始めるに当たり仕事上の指示は東京支社営業第一部に配属されている債務者乙原から受けるよう告げ、債務者乙原はネジシール(水道管などの管財の接続部分に漏れを防ぐために巻くテープ状のシール)の販売を担当するよう指示した。債権者は同月二〇日から自分の名前を書き込んだネジシールのチラシを持ってこれまで債務者会社との取引がない会社を一日当たり四、五件回るという方法で営業に出るようになったが、売上げは全く上がらなかった(債権者が同月一日から営業第一部において勤務を開始したこと、債権者の営業での売上げが全く上がっていなかったことは争いがなく、その余は<証拠略>、審尋の全趣旨)。
5 債務者丙山と債務者丁川は同月二六日債権者に対し同年六月二五日付けで同人を解雇することを一旦通告したが、右の債務者両名は同月三日には右の解雇通告を撤回した(解雇の通告及び右通告の撤回をしたのが債務者丙山及び債務者丁川であることは<証拠略>。その余は争いがない。)。
6 債権者は同月初めころ全労協全国一般東京労働組合女性ユニオン東京(以下「本件組合」という。)に加入し、本件組合は同月六日付けの書面により債務者会社に対し債権者が本件組合に加入したことを通知するとともに団体交渉の開催を申し入れた。その書面には協議事項として「弊組合員 甲野花子に対する退職強要その他について」と書かれていた。債務者会社は右の申入れに対し、解雇は既に撤回し、退職強要のような事実はないし、今後も退職を強要するつもりもないから、協議事項は存在しないし、話し合う必要もないと回答した。本件組合はこの回答に納得せず、同月六日付けの申入れを含めて合計六回にわたり債務者会社に対し団体交渉の開催を求めたが、債務者会社は本件組合の求めに全く応じなかった(本件組合が同月六日付けで債権者が本件組合に加入したことを通知し、団体交渉の開催を申し入れたことは争いがなく、その余は<証拠略>、審尋の全趣旨)。
7 本件組合は同年七月二四日東京都地方労働委員会(以下「都労委」という。)に対し債務者会社とのあっせんを申請したが、債務者会社は都労委によるあっせんには応じなかった。そこで、本件組合は抗議申入書を債務者会社に直接手渡すという方法によって債務者会社があっせんを拒否したことについて抗議することを決め、本件組合の組合員が同年八月一〇日債務者会社の東京支社を訪ねて抗議申入書を手渡そうとしたが、債務者会社は本件組合の組合員が東京支社を訪ねてきたことを債務者会社に対する業務妨害活動であるとみて、本件組合の組合員が東京支社の事務所に入ろうとするのを拒むとともに警察を呼んでこれに対処しようとした。本件組合の組合員が東京支社の事務所に入ろうとする際に債務者会社の社員によって入室を拒まれ、押し合いになるなどしたが、その際に本件組合の組合員は抗議申入書を債務者会社の社員に手渡した。本件組合の組合員は債務者会社が呼んだ警察の到着後東京支社から引き上げた(本件組合が都労委にあっせんを申請したことは争いがなく、その余は<証拠略>、審尋の全趣旨)。
8 本件組合及び全労協全国一般東京労働組合は同年一〇月一日都労委に対し債務者会社による不当労働行為について救済の申立てをした(以下「本件救済の申立て」という。)。本件救済の申立ての申立書の「請求する救済の内容」の欄には「1 被申立人および被申立人東京支社は、申立人組合・組合員甲野花子が申し入れている営業業務おける不当な取り扱い等を手段とする退職強要問題等に関する団体交渉には誠実に応じ、組合を対等なパートナーとして認めて健全な労使関係を築かなければならない。2 被申立人および被申立人東京支社は申立人組合の組合員甲野花子に対して暴言をはいたり、組合員であることを誹謗するなどして不利益な取り扱いをしてはならない。
3 被申立人および被申立人東京支社は、本命令書受領の日から3日以内に、下記の陳謝文を申立人組合及び従業員全員に交付するとともに、同文を縦2メートル、横1メートルの白紙に墨書し、被申立人会社(本社・東京支社)の壁の見えやすい場所に2週間掲示しなければならない。」と書かれていた(本件組合が平成一〇年一〇月一日に本件救済の申立てをしたことは争いがなく、その余は<証拠略>)。
三 争点
1 被保全権利について
(一) 債権者の主張
(1) 債務者らは本件組合外が本件救済の申立てをするまでに債権者に対し次のアないしコに掲げる行為を行ってきた。
ア 債権者は、平成一〇年四月中旬ころに太田から営業第一部への配転の話を受けた際に、太田から配転の理由として総務部で取り扱っている保険の売上げが減っており、他方で、営業で人員が必要とされており、営業での業務内容は営業事務であるという説明を受けた。債権者は同月二七日の内示の際に営業第一部への配転には納得できないと申し入れたが、債務者丙山は会社の決めたことであるから変えられないと言い、右の申入れを全く聞き入れようとはしなかった。債権者は同月三〇日営業第一部の竹内譲治(以下「竹内」という。)課長から「あんたが営業に来てもやる仕事はない。あなたの年齢で営業をすることは、経験もないし無理だ。かと言って力仕事もできないだろう。あなたのプライドが許さないでしょう。今のうちに辞職願を出せば、うちの社長は温情がある方だから三か月分の給料は出ます。私は親切で言っている、あなたのことを考えているんだ。」などと言われて一時間くらいにわたり退職を強要された。債権者は竹内課長の発言を聞いて退職を強要するために営業第一部に配転されたと理解し、翌日からの営業第一部での勤務に非常に不安を覚えた。
イ 債権者は同年五月一日営業第一部に出社したが、営業第一部には債権者の机や電話は用意されておらず、債務者丁川からとりあえずワープロ席(大きなワープロが机の上に常置されている席で、末席に置かれていた。)に座るよう指示された。債務者乙原はネジシールの販売を担当するよう指示したが、ネジシールのチラシを一枚債権者に渡しただけで、債権者がネジシールについて説明を求めたり、説明書の有無を尋ねたりしても、一切教えようとはしなかった。営業のやり方についても、一般的なやり方はもちろんのこと、ネジシールのこれまでの取引先や今後の営業対象、販売価格など、必要な知識を一切与えようとせず、「本を買ったり人に聞いたりして自分で勉強しろ。」と言うだけであった。その一方で、債務者乙原はしばしば債権者を食堂に呼び出して「おまえ、本当に営業できるのか。西谷の看板しょって歩くんだぞ。いい加減な気持ちで営業なんかできないんだぞ。」と債権者を威嚇するような態度で繰り返し述べた。竹内課長も債権者を食堂に呼び出し、辞職するよう何度も述べた。そこで、債権者は独力で管機材組合(配管などを扱う業者の集まり)に加盟している業者を対象に営業計画を立てた。
ウ 債権者は債務者乙原に対し研修として先輩営業社員に同行することや営業用の名刺の印刷を申し出たが、債務者乙原は「営業なんかできるかできないか分からないのに名刺なんか作れるか。」などと述べて右の申出を断った。債務者乙原や竹内課長は債権者を食堂に呼び出し、「仕事なんかない。」「営業ができるわけがない。」「今のうちに辞めろ。」などと言って債権者に退職を迫った。このような退職強要は債権者が辞めるつもりはないと述べても執拗に繰り返された。債権者は債務者乙原から債権者が立てた営業計画どおりにやって見ろと言われて同月二〇日から営業に出るようになった。
エ 債権者は同月二六日の朝に債務者丙山から社長室に来るよう呼ばれ、その部屋で債務者丙山と債務者丁川から業務成績が劣悪であるという理由で同年六月二五日付けで債権者を解雇すると言われた。債権者は営業活動を始めてから三日ほどしか経っておらず、債務者会社の命令で全く経験のない営業に配転されたのに、そのための研修など全く行わないで業務成績が劣悪であると言われることには到底納得できず、そのことを訴えても右の債務者両名は全く聞き入れようとせず、債権者に対しすぐに帰宅して翌日からは自宅待機するよう指示して一方的に話を打ち切った。
オ 債権者は同年六(ママ)月二九日自宅待機中のところを債務者丙山と債務者丁川に呼び出されて出社し、右の債務者両名から退職願を提出するよう執拗に迫られた。債務者丁川には「この野郎。」と言われてつかみかかられそうになり、恐怖の余り足が震えるほどであった。結局、債権者はこの日に退職願を提出するには至らなかったが、債務者丙山から同月二六日と同様に同年六月二五日をもって解雇することを通告され、私物をすべて持ち帰るように指示され、債権者はやむを得ず机やロッカーを整理して帰宅した。
カ 債権者は債務者会社からの解雇通告にどうしても納得ができず、同月三日電話で解雇通告を書面にするよう求めたところ、電話に出た債務者丙山は債権者に出社するよう指示し、出社した債権者に対し債務者丙山と債務者丁川が執拗に退職願を提出するよう迫ったが、債権者はこれに応じずに、逆に解雇通告を書面にするよう求めた。そのようなやりとりがしばらく続いた後に、債務者丙山は突然態度を変え、「そんなにここで仕事をしたいのなら、また社に戻っていい。しかし営業だ。」と言い出し、債権者に債務者会社に戻るかどうかについて即答を求めた。債権者は唐突な解雇撤回に不審感を抱き、また戻っても同様の嫌がらせや退職強要が続くのではないかと不安に感じ、回答を保留したまま翌日から出勤した。
キ そこで、債権者は労働組合を通じて解雇通告及びその撤回、退職強要などの問題を交渉しようと考えて本件組合に加入し、本件組合は債務者会社に団体交渉を申し入れたのであるが、債務者会社はこの申入れをかたくなに拒否するとともに、社員らを通じて債権者に対する攻撃を強めてきた。すなわち、債務者乙原は何かにつけて債権者を怒鳴りつけることが多くなり、日常の業務指示でも「ごちゃごちゃ言ってんな。」「てめえ、ふざけんなよ。」「この野郎、ぶっとばすぞ。」などと大声を出し、債権者を威嚇した。債務者乙原や債務者会社の管理職などは備品の管理や交通費の請求などに関する細かな問題で債権者を呼び出し、多人数で取り囲んで威嚇したり、執拗に始末書の提出を要求するなどの嫌がらせを行った。債権者があいさつしても無視したり回覧文書を回さないという嫌がらせを債務者会社のほぼ全員からされるようになった。営業についても、債権者に対する研修は引き続き全くされず、債権者は自分で調べた会社に飛び込みで営業をするという毎日を送った。そもそもネジシールという商品は単品で扱われるようなものではなく、訪問先からは他の商品と併せて取引していると言われることがほとんどであった。まれに関連商品の問い合わせを受けることもあったが、それについて営業第一部の瀬越大介(以下「瀬越」という。)に尋ねたところ、瀬越はそことの取引は自分がすると言って債権者には扱わせなかった。このように債務者会社は全く実績の上がらない状態で債権者に営業活動を行わせていたのであり、このような業務自体が債権者にとっては苦役であるというべきであったが、さらに債務者乙原、債務者丁川及び債務者丙山は債権者を呼び出し「どこから給料もらっているんだ。組合からもらえ。」などと代わる代わる怒鳴り、債権者を罵倒した。
ク 本件組合が抗議申入書を直接手渡すために同年八月一〇日に債務者会社の東京支社を訪れた際に、債務者会社は責任者が対応しようとせず、当時営業第二部長であった天海孝司が出て来て本件組合の組合員に対し「くそみたいな。」「うっるさいなー、お前ら」などと大声で怒鳴り、組合員に手をかけて腕づくで押し出そうとした。他の社員も非常に乱暴な対応で、一方的に警察を呼ぶなど、本件組合を交渉相手として尊重する姿勢は全く見られなかった。
ケ 右クの申入れ後、債権者に対する誹謗、中傷、特に組合活動に絡めた中傷が激しくなり、債務者乙原、債務者丁川、債務者丙山らからは「お前はどこの社員なんだ。どこから給料もらっているんだ。」「お前は社員として不適格だ。」「ここでなかったらぶっ殺してやる。」「お前は精神異常者だ、気狂いだ。」「この野郎。女じゃねえー。」「会社辞めてから組合に入ればいいだろう。」「てめえの顔、鏡で見てみろ。目がつり上がっているぜ、ばかやろう。」などの暴言、脅し、罵声、非難を受けた。時には机をたたいたり机の脚をけったりされることもあり、債権者が身の危険を感じることもしばしばあった。
コ 右ケのような暴言や威嚇は、都労委に救済申立てをした後は行われないようになった。しかし、休暇取得の際に診断書などの書類の提出をむやみに求められたり、通院のための早退について債権者だけ賃金カットされたり、健康保険証の再発行手続でも通常要求されていない始末書の提出を強硬に指示されるなど、債権者に対する嫌がらせは手を変え品を変えて執拗に続けられた。
(2) 債務者らは本件救済の申立て後である平成一一年六月以降次のアないしオのとおり債権者に対する暴言、威嚇、中傷、追尾、監視行動などを行うようになった。
ア 債権者の実弟が平成一一年六月初めに死亡したことを理由に債権者が忌引きを取得したことについて、債務者丁川と債務者丙山は、忌引きは前もって申し出なければ取得できないとか、いつどういう原因で死亡したのかについて経緯書を提出しろなどと通常では必要とされていない手続の履践を要求し、債権者が事情を釈明しようとすると、「もうよい。お前、何言ってるんだ。会社に来るな。」などと言って債権者を怒鳴りつけた。本件組合がこの件で申入書を提出したところ、債務者丁川は「働きもしないでよく言うわ。気がおかしいんじゃないか。」などと債権者を誹謗し、債務者丙山や債務者丁川も「気がおかしいんだよ。」などと債権者を中傷した。
イ 債権者は同年七月一五日ころ営業から戻ってきた後に夏休みの取得について債務者乙原に話そうとしたところ、債務者乙原はいきなり、「うるせえ。このがきゃ、ごちゃごちゃ言ってんな。」と債権者を怒鳴りつけ、さらに「てめえ、気違いなんだよ。さっさと死んでしまえ。」と太い声で債権者を威嚇した。その直後に追い打ちをかけるように債務者丁川は「お前、頭おかしいんだよ。新聞見てみろ、新聞に書いてあるだろう。お前、気違いなんだよ。」と債権者を怒鳴りつけた。債権者は右の債務者両名の余りの剣幕と恐ろしい言葉におののき、ほとんどものも言えない状態であった。
ウ 以上のような状況の中で、債権者が身の危険を感じることもしばしばあったが、債権者は同年八月一〇日債務者乙原から就業時間中に暴力を振るわれるということが起こった。すなわち、債権者は右同日午前一一時ころ営業活動のために債務者会社を出て数十メートルほど行くと、前方の道路の向かい側のガレージ外側の柱の当たりに債務者乙原らしい人物が見えた。その人物は物陰に隠れたりしながら債権者の方をうかがっている様子だったので、債権者は不審に思い、ガレージに行ってみた。すると、その人物はガレージ内に停められた車の陰にうずくまるようにして隠れていたが、ふと上げた顔を見ると、債務者乙原であった。債権者が不思議に思って「どうしたのですか。」と声をかけると、債務者乙原はガレージから外に出て、一緒に外に出た債権者に対し「てめえ、関係ない。さっさと稼いでこい。ばばあ」などと怒鳴りだし、持っていたビニール傘の先を債権者の顔に突き出して威嚇した。驚いた債権者が「やめてください。」と言っても、「くそばばあ、ぶっ殺すぞ。死んでしまえ。」と怒鳴り続け、傘の先を何度も突きつけた。債権者は本当に危害を加えられるかもしれないと怖くてたまらなかったが、必死で「やめてください。やめないのなら警察に行きましょう。」と言った。それでも債務者乙原は「このばばあ、死ね、死ね。」と怒鳴り続けて、人が通りかかってもやめようとはしなかった。しばらくすると、債務者乙原は一人で道路をわたって債務者会社の方向に歩き出した。債権者はこんな危険なことをされたのを放置しておくことはできないと思い、債務者乙原に対し警察に一緒に行こうと呼び掛けた。すると、債務者乙原は再び債権者に対し悪態をついた後に「会社に行く。てめえも一緒に来い。」と言って、債務者会社に向かって歩き出しながら債権者の首を後ろからつかんで引きずっていこうとした。債権者は首を締め付けられ、呼吸も困難になって苦しくてたまらず、このまま引きずられたらどうなってしまうか分からないと思い、必死に債務者乙原の手を振り払い、近くのビルに逃げ込んだ。債権者はこの債務者乙原の暴力により息苦しくて声も出ない状態になってしまったため、債務者会社に早退の連絡を入れて病院に行き、緊急室で治療を受けた。債権者は翌日も同病院の整形外科で診察を受け、頚部挫傷、頚部捻挫で加療約二週間と診断された。首付近の痛みも強かったため、債権者は同月一六日まで債務者会社を体んで休養した。
エ 債権者は右ウのような債務者乙原の理不尽な暴力を放置することはできないと考え、債権者代理人を通じて債務者乙原に対し謝罪と二度とかかる暴力を行わないことを求めるとともに、債務者会社に対し事実の調査とそれに基づく会社としての責任ある対応、債権者の就労の安全の確保を求めた。本件組合も債務者会社に対しかかる事態を招いたことについて書面で抗議申入れを行った。ところが、同月一七日に出社した債権者は債務者丙山と債務者丁川に事実調査と称して呼び出されたが、右の債務者両名は事実調査の席では債権者の言うことはほとんど聞き入れず、「触っただけだ。」という債務者乙原に一方的に同調し、債権者に対しては「締められた痕を見せろ。どこが赤くなっているんだ。赤くなんかなっていない。お前が逆に乙原を挑発したんだ。」「お前は何でも自分が正しい、事実だ、と平気でうそをつく。」「乙原は首なんか締めていないと言っているし、誰も赤くなった痕なんか見ていない。お前は被害妄想だ。」などと言って、代わる代わる債権者を中傷した。さらに債権者が営業で売上げを上げていないことを非難し、債権者の営業報告書に記載された時間も真実ではないのではないかと中傷した。このように事実調査にはほど遠いやりとりが約二時間にわたって続いた。債務者会社は債務者乙原の暴力について右に述べた以上のことは何もしていない。
オ 債務者乙原が同月一〇日の暴行の前に債務者乙原が債権者に見つかりそうになって車の陰に隠れたことなどを考えると、債務者乙原は債権者に気づかれないように債権者を監視していたものと考えられる。また、例えば、債権者が三、四分遅れて着席したときに債務者丁川から「どこをうろうろしていた。うそ書くな。食事、○○でしていて遅れた。見た人がいるんだ。」と言われたことがあったり有給休暇で本件組合の組合事務所に行っていたことをしばらく経った後に債務者会社の管理職から指摘されたこともあった。債権者が同月一七日に債務者丙山らに呼び出された際にも、債務者丙山は営業中の債権者の行動について道順まで具体的に指摘しながら債権者を非難したが、そのような指摘は社内勤務の債務者丙山が知り得ることではなかった。実際に債権者が営業活動をしているときに同一人物に違う場所で何度も出会うこともあった。
以上を総合すると、債務者会社は債権者の行動を監視し債権者を精神的に追いつめようとしているものと考えざるを得ない。かかる追尾、監視行動が債権者の人格を著しく侵害する違法な行為であることは明らかである。
(3) 債務者乙原、債務者丙山、債務者丁川らの債権者に対する暴言、誹謗、中傷、威嚇行為が債権者の名誉、人格を侵害する違法な行為であること、債務者乙原の債権者に対する暴行が債権者の身体の安全を脅かす違法な行為であること、債権者に対する追尾、監視行動が債権者の人格を著しく侵害する違法な行為であることは明らかであり、右の暴言、威嚇、暴行、追尾、監視行動は単に債務者会社の社員の個人的な行為というものではなく、平成一〇年五月に債権者を営業第一部に配転させて以来債務者会社によって行われてきた債権者に対する退職強要の一環であることは明らかである。債務者会社は債権者を解雇する理由が見つからないため、全く経験のない営業活動に従事させ、社員を使って債権者を威嚇し、その他の様々な嫌がらせを行って債権者を退職に追い込もうと意図し、債務者乙原らに違法な行為を行わせているのである。
そこで、債権者は、人格権又は人格権に基づく差止請求権に基づいて、債務者らに対し、右(2)の債務者らによる債権者の名誉若しくは人格の侵害又は暴行について申立ての趣旨のとおりその差止めを求める。ここで言う人格権とは、主として人格的属性を対象とし、その自由な発展のために第三者による侵害に対し保護されなければならない諸利益の総体をいい、民法七一〇条に例示された身体、自由、名誉などがこれに含まれる。
(二) 債務者らの主張
(1) 債務者らは本件組合外が本件救済の申立てをするまでに債権者の主張に係る退職強要をした事実はない。
債権者に限らず債務者会社の社員が営業活動を行う場合にはこれまでに取引のなかった者に対していわゆる飛び込みで営業する場合があり、飛び込みでの営業は何も債権者に限ってのことではない。債権者と同じようにネジシールという商品の販売を担当していた瀬越との比較においても、債権者の売上げがゼロというのは債権者が営業活動を行うことについていかに熱心ではなかったかを物語っている。債権者は売上げがゼロであることについては隠しおおせない事実であるため、売上げがゼロである理由として教育がされていないとか、指導がないとか、債務者会社に原因があるかのように主張しているにすぎない。
債権者の営業での売上げがゼロであることから、債務者丁川らが債権者の給料分は赤字となってしまう、給料分は売上げを上げるように述べたことはあるが、それは至極当然のことである。
債権者は瀬越が債権者の取引先を横取りしたかのような主張をしているが、それは全く事実に反することである。債務者会社の社員が遅刻や早退をした場合、その時間は就労していないのであるから、賃金カットするのは労働契約上当然であり、体が具合が悪いから休むというのであれば診断書の提出を求めるのは当然であって、このような当然の行為を嫌がらせと称している債権者の資質そのものが問われている。
(2) 債務者らが平成一一年六月以降債権者の主張に係る債権者に対する暴言、威嚇、中傷、追尾、監視行動などを行ったことはない。
債権者が忌引休暇を申請したため、債務者丙山が誰がいつ死んだか分からなければ忌引休暇を与えられないのでそれを記載して申請するよう述べたことはある。債権者は「忌引休暇とさえ言えばよいのであって、誰がいつ死んだなどという必要はない。」と主張した。
債務者会社は、債務者乙原が債権者に暴行を加えたとされる件について債務者乙原から事情を聴取したところ、債権者の主張に係る事実はなかったことが判明した。しかし、債務者乙原の言い分だけでは公平を欠くので、債権者からも事情を聴取することにしたが、その事情聴取の際に、債権者に対し、債権者の申告のとおりであるとすれば、告訴等の手続をとりきちんと捜査してもらうように、警察に行くように再三述べたにもかかわらず、債権者はなぜか「あんたに警察に行けとか言われる筋合いはない。」と拒んだのである。
(3) 債権者の主張に係る被保全権利である人格権については、そもそも抽象的な意味での人格権を否定する者はいないから、人格権について民事保全法二三条二項にいう「争いがある権利関係」ということはできない。
また、本件救済の申立ての内容と本件申立ての内容を対比すれば、本件申立てが人格権とは関係のない組合運動としての申立てにほかならないことは明らかである。
2 保全の必要性について
(一) 債権者の主張
(1) 債権者は債務者らによる暴言、威嚇、暴行、監視などにより安心して就労することができず、いつも緊張した状態を強いられているのであり、そのため日々甚大な精神的苦痛を被っており、そのため心身に不調を来すことも十分考えられるところである。債務者乙原は実際に債権者に対し傘の先を突きつけようとしたり首をつかんだりしており、これがエスカレートすれば深刻な傷害事件に発展する可能性もある。このように債務者らの違法な行為を放置すれば、債権者が取り返しのつかない損害を被るおそれがある。
(2) これに対し、債務者らは、本件申立ての保全の必要性については、債権者の申立てに係る妨害禁止の仮処分は債務者の行為に与える損害や影響が極めて大きいのであるから、より高度な緊急性、必要性の疎明が求められると主張するが、本件申立てで対象となっているのは本来債務者が行う必要性も合理性もない行為であって、これらの行為を禁止しても債務者に損害や影響を与えることはほとんど考えられない。
また、債務者らは、本件申立てに係る仮処分が債務者らの任意の履行を求めるものであってその執行につき実効性を期待し難いと主張するが、違反行為に対しては間接強制(民事執行法一七二条)などの方法が可能であり、右の主張は失当である。
(二) 債務者らの主張
(1) 本件申立てに係る仮の地位を定める仮処分は、「争いがある権利関係について債権者に生ずる著しい損害または急迫の危険を避けるためこれを必要とするとき」(民事保全法二三条二項)に限るものとされ、債権者の急迫の危険を避ける緊急の措置として債務者の損失において確定判決により執行したと同様な結果を享受させるいわゆる満足的仮処分であるから、保全の必要性については高度かつ緊急の必要性が求められる。
また、本件申立てに係る仮処分は妨害禁止の仮処分であり、妨害禁止の仮処分は妨害が継続することにより債権者の生命身体が危機に瀕し、被保全権利に基づく損害賠償などの本案判決の確定を待てないほど緊迫した事態に立ち至り、その急迫状態を暫定的に排除しておかなければ本案訴訟の維持が困難である場合に限り発せられるものである。他方において、妨害禁止の仮処分が発せられると、債務者は命令主文に掲げられた行為を禁止されるのであり、異議審若しくは抗告審で仮処分が取り消され、又は本案訴訟で債権者敗訴の判決が確定しても、既に禁止された行為の復元は実際上極めて困難であり、債務者が被る損害や影響は極めて大きい。したがって、妨害禁止の仮処分では緊急性、必要性において高度の疎明が求められる。
ところが、債権者の主張に係る保全の必要性は、要するに、精神的苦痛を被っているということであるが、そのような精神的苦痛が存在するというのであれば、それは損害賠償請求事件においてその存否が争われるべきものであり、それをもって足りるというべきであり、債権者が精神的苦痛を被っているというだけでは保全の必要性があるということはできない。
(2) 本件申立てに係る妨害禁止の仮処分は債務者らの任意の履行を求めるものであり、その執行につき実効性を期待し難いのであって、その点からも本件申立ては認められない。
3 本件申立ての内容について
(一) 債務者らの主張
(1) 債権者が本件申立ての第一項において債務者らに禁止を求めている債務者らの行為とは「暴言をあびせ罵倒したり」「債権者を取り囲んで威嚇する」ことであるが、暴言、罵倒、威嚇は抽象的な概念であるから、暴言、罵倒、威嚇という用語によっては債務者らが行うことを禁止された行為の範囲を画することはできないのであって、本件申立ての第一項に係る申立ては特定に欠けるといわざるを得ない。
仮にこの申立ての趣旨を「てめえ」「この野郎」「死ね」などといった特定の言語を発してはならないということであれば、特定に欠けるところはないことになるが、いかなる場合であろうとも債務者らが本件申立ての第一項に掲げる言語を発してはならないということは仮処分としては行き過ぎである。
(2) 債権者は本件申立ての第二項において債務者乙原が債権者に対し暴行を加えることの禁止を求めているが、この暴行が刑法上の暴行を意味するのであれば、刑法上の犯罪を犯してはならないことは当然のことであり、あえて仮処分を求める必要性はない。
仮に暴行が継続かつ反復して行われるためにこのような仮処分を求めるというのであれば、刑事上の犯罪として告訴などの刑事処罰を求めれば足り、あえて仮処分を求める必要はない。
(3) 本件申立ての第三項には本件申立ての第一項と第二項について指摘したのと同じ問題がある。
(4) 債務者会社には雇用契約に基づいて債権者の職務遂行が適正に行われているかどうかを管理する権利があるのであって、そのような管理権を正面から否定する本件申立ての第四項は失当というほかない。
(二) 債権者の主張
(1) 暴言、罵倒、威嚇は一般的な用語として日常的に使われているものであり、その意味内容は明らかである上、暴言、罵倒については具体的な言葉を例示してそれと同程度のものである旨を明示し、威嚇については「債権者を取り囲」むという態様を示しているから、本件申立ての第一項が特定に欠けることはない。
(2) 刑事、民事のいかなる法的手段を選択するかは、被害者が自分と加害者との関係、事件の起こった状況などを考慮して何がもっとも効果的かという観点から判断すべきものであり、一概に刑事処罰が最良の方法であると言えるものではない。本件では、暴行が債務者会社の業務時間中に業務に関連して起こっており、債務者会社による一連の退職強要が行われている中で発生したものであるので、債権者としては債務者会社をも相手方として仮処分の申立てを行うのが暴行を防止するには有効であると考えて、債権者は本件申立ての第二項に係る申立てを行ったのである。
(3) 債権者は、債務者会社が労働契約に基づいて社員の職務遂行過程を管理してはならないと主張しているわけではない。債務者会社が社員の職務が適正に行われるよう管理することは認められるべきであるが、その管理の方法と程度には自ずと限界があり、例えば、監視カメラで常時社員を撮影、監視したり、営業活動中に尾行することなどは、社員の人格権を著しく侵害することであるとともにそこまでして債務者会社が監視しなければならない必要性は認められないのであって、債権者は本件申立ての第四項においてそのような債権者の人格権を侵害するような違法な行為の禁止を求めているにすぎない。
第三争点に対する判断
一 被保全権利について
1 債権者は本件申立てにおいて被保全権利として人格権ないし人格権に基づく差止請求権を主張しているので、まず右の主張の当否について判断する。
(一) 生命、身体、名誉、いわゆるプライバシー、自由、氏名権、肖像権などの人格的利益については、(1) これらを違法に侵害された被害者が加害者に対し損害賠償を求めることができることは、民法七〇九条ないし七一一条及び七二二条の外、最高裁昭和六三年二月一六日第三小法廷判決(民集四二巻二号二七ページ)、最高裁平成六年二月八日第三小法廷判決(民集四八巻二号一四九ページ)、最高裁平成七年九月五日第三小法廷判決(判例時報一五四六号一一五ページ)などから明らかであり、(2) 人格的利益のうち生命、身体又は名誉の侵害については、現にそれらを侵害し又は侵害するおそれがあると認められる場合には、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、被害者は加害者に対し侵害行為の差止めを求めることができることは、最高裁昭和六一年六月一一日大法廷判決(民集四〇巻四号八七二ページ)から明らかである。
(二) 前掲の最高裁昭和六一年六月一一日大法廷判決が「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法七一〇条)又は名誉回復のための処分(同法七二三条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。」と述べていることからすると、同判決は、生命、身体及び名誉が極めて重大な保護法益であり、これらの人格的利益を内実とする人格権が物権の場合と同様に排他性を有する権利であることにかんがみ、生命、身体又は名誉といった人格的利益を内実とする人格権についてこれが侵害された場合又は侵害されるおそれがある場合には被害者は加害者に対し侵害行為の差止めを求めることができるものと解しているのであって、そうであるとすると、生命、身体又は名誉といった人格的利益以外の人格的利益を内実とする人格権についても、その人格権の内実をなす人格的利益が生命、身体及び名誉と同様に極めて重大な保護法益であり、その人格権が物権の場合と同様に排他性を有する権利といえる場合には、その人格権に対する侵害又は侵害のおそれがあることを理由に被害者は加害者に対し侵害行為の差止めを求めることができるものと解される。
(三) そこで、債権者が本件申立てにおいて主張している人格権の内実をなす人格的利益が何であるかが問題となるが、債権者の申立てや主張を子細に検討しても、債権者の主張に係る人格権の内実をなす人格的利益として債権者が明示又は黙示に挙げているといい得るのは生命、身体だけであり、その外に債権者の主張に係る人格権の内実をなす人格的利益の内容を具体的に明確にはしていないというべきである。
これに対し、債権者の申立てや主張の中には、債務者らが直接又は第三者をして債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇すること(本件申立ての第一項、第三項)によって債権者の名誉、人格が侵害されたという申立てや主張があるが、そもそも名誉とは人の品性、徳行、名声、信用などの人格的価値について社会から受ける客観的評価である(前掲の最高裁昭和六一年六月一一日大法廷判決を参照)ところ、人に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは人を威嚇することによってその人の自尊心が傷つけられ、名誉感情が害されることはあるとしても、そのことから人に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは人を威嚇することがその人の名誉という人格的利益を侵害するものということができないことは明らかである。また、人格というだけではその内実をなす人格的利益を具体的に明確にしていないことも明らかである。結局のところ、債権者の主張に係る名誉、人格の侵害とは、要するに、債権者が自尊心が傷つけられたり名誉感情が害されたりするなどして精神的苦痛を被っているという意味であることは債権者の申立てや主張自体から明らかであって、債権者が右のような意味での精神的苦痛を被っているからといって、そのことから債権者の名誉、人格が侵害されたということはできない。
また、債権者は前記第二の三3(二)(3)において監視カメラで常時社員を撮影、監視したり営業活動中に尾行することなどは社員の人格権を著しく侵害することであると主張しているが、債権者は債務者会社が社員を管理することができることを前提にこの問題はその管理の方法と程度の限界を超えているかどうかという問題であるとも主張しているのであって、そうであるとすると、ここで債権者が主張している人格権の内実をなす人格的利益がいわゆるプライバシーであると解することはできない。
そして、他に債権者の主張に係る人格権の内実をなす人格的利益の内容を具体的に明確にした主張は見当たらない。
(四) そこで、本件においては、債権者の主張に係る債務者らの侵害行為が債権者の生命、身体といった人格的利益を侵害するものであるかどうかという観点から、次の2において被保全権利の成立について検討する。
2 被保全権利の成否について
(一) 債権者の主張に係る債務者らの侵害行為とは、要するに、直接又は第三者をして債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇すること(本件申立ての第一項、第三項)、直接又は第三者をして債権者に暴行を加えること(本件申立ての第二項、第三項)、第三者をして債権者を追尾させるなどして監視すること(本件申立ての第四項)である。
(二) 右(一)の行為のうち、
(1) 人に向かって暴言をあびせ罵倒し又は人を威嚇することは、一般にその人に不快感を生じさせるが、暴言、罵倒、威嚇の内容や態様などによっては、単に不快感にとどまらず、その人の自尊心を傷つけ、名誉感情を害し、その人に屈辱感、焦燥感、恐怖心などを生じさせてその人が精神的苦痛を被ることもあるが、人に向かって暴言をあびせ罵倒し又は人を威嚇したということだけでは、それによってその人の生命又は身体という人格的利益を侵害したとは認め難い。
しかし、例えば、人に向かって暴言をあびせ罵倒し又は人を威嚇するという行為が、暴言、罵倒、威嚇の内容や態様という観点から見て、単に人に不快感を生じさせるにとどまらず、その人の自尊心を傷つけ、名誉感情を害し、その人に屈辱感、焦燥感、恐怖心などを生じさせてその人が精神的苦痛を被ることが予想されるほどのものであると認められ、かつ、それらの行為が相当多数回にわたり反復継続して繰り返されている場合には、それによってその人がいわば恒常的に精神的苦痛を受け続けて精神的に疲弊するに至り、身体や精神に何らかの障害が発症することも十分考えられるのであって、既にそのような状況に至った場合又はいずれそのような状況に至ることが予想される場合には、人に向かって暴言をあびせ罵倒し又は人を威嚇するという行為はその人の生命又は身体という人格的利益を侵害するものであり又は侵害するおそれがあるものであるということができる。
(2) 人に暴行を加えることがその人の生命又は身体という人格的利益を侵害するものであることは明らかである。
(3) 人を追尾するなどして監視することは一般にその人に不快感や不安感を生じさせるが、監視の態様などによっては、単に不快感や不安感にとどまらず、その人に焦燥感や恐怖心などを生じさせてその人が精神的苦痛を被ることもあるし、その人のプライバシーを侵害することもあるが、人を追尾するなどして監視するということだけでは、それによってその人の生命又は身体という人格的利益を侵害するものとは認め難い。
しかし、例えば、人を追尾するなどして監視するという行為が、その態様などの観点から見て、単に人に不快感や不安感を生じさせるにとどまらず、その人に焦燥感や恐怖心などを生じさせてその人が精神的苦痛を被ることが予想されるほどのものであると認められ、かつ、追尾するなどして監視するという行為が相当多数回にわたり反復継続して繰り返されている場合には、それによってその人が恒常的に精神的苦痛を受け続けて精神的に疲弊するに至り、身体や精神に何らかの障害が発症することも十分考えられるのであって、そのような状況に至った場合又はいずれそのような状況に至ることが予想される場合には、人を追尾するなどして監視するという行為はその人の生命又は身体という人格的利益を侵害するものであり又は侵害するおそれがあるものであるということができる。
(4) 以上によれば、
ア 人に向かって暴言をあびせ罵倒し、人を威嚇し若しくは追尾するなどして監視するという行為は、それによってその人が恒常的に精神的苦痛を受け続けて精神的に疲弊するに至り、身体や精神に何らかの障害が発症した場合又はいずれ身体や精神に何らかの障害が発症することが予想される場合には、人の生命又は身体という人格的利益を侵害し又は侵害するおそれがあるものということができる。
イ 人に暴行を加えるという行為は人の生命又は身体という人格的利益を侵害するものということができる。
(三) 前記第三の一2(二)(4)アに掲げた侵害行為の差止めの可否について
(1) 債権者は、債務者らが直接又は第三者をして債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇する行為及び債務者会社が第三者をして債権者を追尾させるなどして監視するという行為によって精神的苦痛を被っており、そのため心身に不調を来すことも十分考えられると主張している(前記第二の三2(一)(1))。この主張によれば、債権者はその主張に係る債務者らの侵害行為によって現に生命又は身体という人格的利益を侵害されているわけではないことは明らかであり、債権者は今後債権者の生命又は身体という人格的利益が侵害されるおそれがあると主張しているものと解される。
そして、債権者が平成一一年六月以降の債務者らの侵害行為の具体例として挙げているのは、平成一一年六月初めの忌引きの申出の際の債務者丁川と債務者丙山による誹謗・中傷(前記第二の三1(一)(2)ア)、同年七月一五日ころの債務者乙原による威嚇(前記第二の三1(一)(2)イ)、同年八月一〇日の債務者乙原による暴行(前記第二の三1(一)(2)ウ)、同月一七日の事実調査の際の債務者丙山と債務者丁川による誹謗・中傷(前記第二の三1(一)(2)エ)であり、右の外に、債権者はその陳述書(<証拠略>)において債権者が同年一〇月上旬から中旬にかけて照会書の件や有給休暇の取得の件で債務者丙山や債務者丁川から暴言、中傷、威嚇を受けたことなどを供述している。債権者は、その外に、具体的な日時、場所、態様、行為者を明らかにしてはいないものの、債権者が身の危険を感じることがあると主張し(前記第二の三1(一)(2)ウ)、また、同年八月一〇日の暴行を加える前の債務者乙原の行動、債務者丁川や債務者丙山などの発言などからすると、債権者が債務者会社の社員によって尾行され債権者の行動が監視されていると考えられると主張している(前記第二の三1(一)(2)オ)。
また、債権者はこれらは本件組合が本件救済の申立てをするまでに債権者に対し行われていた退職強要の一環として行われたものであるとも主張している(前記第二の三1(一)(3))。
(2) しかし、債権者の主張によれば、債務者会社は平成一〇年五月に債権者を営業第一部に配転させて以来債権者に対して退職強要を続けてきたのであり、平成一〇年一〇月にされた本件救済の申立てによって一旦中断したものの、平成一一年六月から再び復活し、右同月以降債権者の退職強要を目的として前記のとおり債権者の主張に係る債務者らの侵害行為が行われたというのであるが、右(2)の冒頭に述べた債務者らの侵害行為が行われるに至った経緯の外、債権者の主張に係る債務者らの侵害行為の内容や態様、頻度や回数などに照らせば、仮に債権者の退職強要が事実であると認められ、また、右の債権者の主張に係る債務者らの侵害行為がすべて事実であると認められたとしても、右の債権者の主張に係る債務者らの行為だけでは今後も右の債権者の主張に係る債務者らの行為が反復継続されればいずれ債権者の身体や精神に何らかの障害が発症することが予想されることを認めるには足りないというべきである。
したがって、仮に債務者会社を除くその余の債務者らが平成一一年六月以降債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇するという行為をし、債務者会社が平成一一年六月以降同社の社員(債務者会社を除くその余の債務者らを含む。)をして債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇し又は平成一一年六月以降同社の社員(債務者会社を除くその余の債務者らを含む。)その他をして債権者を追尾させるなどして監視していたとしても、右の侵害行為が債権者の生命又は身体という人格的利益を侵害するおそれがあるものということはできない。
(3) 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、債権者は、債務者会社を除くその余の債務者らに対し、同債務者らが債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇する行為の差止めを求めることはできないし、債権者は、債務者会社に対し、債務者会社が債務者乙原、債務者丙山、債務者丁川その他債務者会社の社員らをして債権者に暴言をあびせ罵倒したり若しくは債権者を取り囲んで威嚇するなどして債権者の名誉、人格を侵害する行為をさせることの差止め及び債務者会社が債務者乙原ら同社の社員その他の者をして債権者の営業活動中に債権者を追尾するなどその行動を監視することの差止めを求めることもできない。
そうすると、本件申立ての第一項に係る行為の差止め、同第三項のうち債務者会社が債務者乙原、債務者丙山、債務者丁川その他債務者会社の社員らをして債権者に暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を取り囲んで威嚇するなどして債権者の名誉、人格を侵害する行為をさせることの差止め、同第四項に係る行為の差止めは、いずれも認められないというべきである。
(四) 前記第三の一2(二)(4)イに掲げた侵害行為の差止めの可否について
(1) 債権者は、債務者乙原は実際に債権者に対し傘の先を突きつけようとしたり首をつかんだりしており、これがエスカレートすれば深刻な傷害事件に発展する可能性もあり、債務者らの違法な行為を放置すれば、債権者が取り返しのつかない損害を被るおそれがあると主張している(前記第二の三2(一)(1))。
(2) しかし、債権者は、債務者乙原が債権者に暴行を加えるという行為及び債務者会社が同社の社員をして債権者に暴行を加えさせるという行為について差止めを求めているが、これらは、債務者乙原が現に債権者に暴行を加えていることや債務者会社が現に同社の社員をして債権者に暴行を加えさせていることに対する差止めを求めるものではなく、債務者乙原が今後債権者に暴行を加えるであろう行為や債務者会社が今後同社の社員をして債権者に暴行を加えさせるであろう行為に対する差止めを求めるものであると解され、そうであるとすると、債務者乙原が今後債権者に暴行を加えるおそれがあるかどうか、債務者会社が今後同社の社員をして債権者に暴行を加えさせるおそれがあるかどうかが問題となる。
(3) 債権者は債務者乙原は債権者に退職を強要する目的で暴行を加えてきたと主張するが、仮に債務者乙原が債権者に暴行を加えるに至る経過が債権者が主張するとおりであるとすれば、債務者乙原が債権者に暴行を加えるに至る経過について債権者が主張する内容に照らし、債務者乙原が債権者に暴行を加えたのはいわば偶発的な出来事であるというべきであって、債務者乙原が債権者に暴力を加えることを手段として退職を強要するという挙に出たということはできない。
また、仮に債務者らが直接又は第三者をして債権者に向かって暴言をあびせ罵倒し若しくは債権者を威嚇するという行為をし又は債務者会社が第三者をして債権者を追尾させるなどして監視するという行為をしていたことが事実であると認められ、債務者らがこれらの行為に及んでいた理由が債権者に退職を強要する目的であったと認められたとしても、そのことから直ちに債務者乙原が今後債権者に暴行を加えることが予想されることを認めることはできない。
そして、債権者の主張に係る債務者乙原の暴行がいわば偶発的な出来事であるとすれば、債務者会社が退職強要の目的で今後同社の社員をして債権者に暴行を加えさせることが予想されることも認め難い。
したがって、仮に債務者乙原が債権者に暴行を加えるに至る経過が債権者が主張するとおりであったとしても、債務者乙原が今後債権者に暴行を加えるおそれがあるということはできないし、債務者会社が今後同社の社員をして債権者に暴行を加えさせるおそれがあるということもできない。
(4) 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、債権者は、債務者乙原に対し、債務者乙原が債権者に暴行を加えるという行為の差止めを求めることはできないし、債権者は、債務者会社に対し、債務者会社が同社の社員その他をして債権者に暴行を加えさせるという行為の差止めを求めることもできない。
そうすると、本件申立ての第二項に係る行為の差止め、同第三項のうち債務者会社が債務者乙原、債務者丙山、債務者丁川その他債務者会社の社員らをして債権者に暴行を加えることの差止めは、いずれも認められないというべきである。
3 以上によれば、本件においては、債権者の主張を前提としても、被保全権利である人格権に基づく差止請求権が成立しているということはできない。
二 結論
以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、本件申立ては理由がないからこれを却下し、申立費用については債権者に負担させることとして主文のとおり決定する。
(裁判官 鈴木正紀)